福井県有形文化財(建造物) 旧京藤甚五郎家住宅
最終更新日:2021年3月22日 ページ番号:03509
福井県有形文化財(建造物) 旧京藤甚五郎家住宅
概要
(旧京藤甚五郎家住宅・外観)
所在地
福井県南条郡南越前町今庄68-35
構造形式
【主屋】木造2階建て、塗籠造り、平入、切妻、瓦葺、本卯立、桁行5間、梁間7間、前庇瓦葺
【座敷棟】木造平屋建て、平入、切妻、瓦葺、桁行2間半、梁間5間、前後縁付
建築年代
享和年間(1801から1804)
文化財指定
平成22年4月9日 福井県有形文化財(建造物)
公館日
毎週金曜・土曜・日曜・祝日 午前10時から午後4時まで(年末から3月上旬までの冬期間は非公開)
旧京藤甚五郎家住宅について
旧京藤甚五郎家住宅(以下「京藤家住宅」)は、江戸時代に北陸道の宿場町として栄えた今庄宿の中ほどに所在します。京藤家は、酒造業などを営む一方で脇本陣にも指定された今庄有数の旧家であり、家族や使用人が暮らす主屋と、大名などが宿泊・休憩する本陣形式の座敷棟とで構成される大型の町屋建築です。今庄宿の町屋の多くは明治から昭和にかけて建てられた木部を表した真壁づくりの建物ですが、京藤家住宅は塗籠の外壁となっています。赤みの強い越前瓦の屋根の上にあげた本卯建も特徴で、強い防火意識と当家の財力の高さが窺えます。
当家には水戸天狗党が今庄宿で宿泊した際の資料が残るほか、幕末の歌人・橘曙覧や明治維新の立役者・岩倉具視の書などが伝わっています。
敷地
京藤家住宅は主屋の左に前庭をとり、奥に座敷を配した本陣の形式をとっています。座敷の背後には標高差150メートルから300メートルほどの山並みを借景に庭を築いており、主屋の背後にも作業庭があって、その後ろに土蔵が1棟建っています。土蔵の脇の敷地は一段低く次第に下っていきますが、京藤家に伝わる家相図によると、そこにはかつて酒蔵2棟が建っていました。しかし、明治28年(1895)頃の別の家相図ではこの酒蔵を取り壊すことの可否が打診されています。京藤家は明治4年(1871)から新たに酒造業をはじめたという記録がありますが(実際には寛政大火(1799)以前から酒造を行っていたようです)、この頃に酒造業を廃業し、敷地背後北列の酒蔵群の模様替えを行ったものと考えられています。
外観
主屋は寛政11年(1799)12月の大火で被災したあとに現在の建物に建て替えられたようです。屋根は瓦葺きの切妻で、両側に卯建をあげているのが特徴です。卯建はいわゆる防火のための設備で、火災の際に隣の住宅から火が燃え移るのを防ぐ役目をしています。棟には煙出の越屋根を載せ、瓦は赤みが強く、越前瓦の中でも相当に古いものであると考えられます。
主屋正面の1階開口部は、現在面格子の内側にガラス戸となっていますが、建築当初は擂り上げ戸であり、今もその蔀戸と溝が残っています。擂り上げ戸を立てる正面の柱はいずれも約2.2度傾いていて、これにより蔀戸を擂り上げたときの安定を図っていたものと思われます。このような造りは、越前各地の町家で多く見られます。
2階の正面の壁は前面に虫籠格子を建て、窓と壁面との差を意匠的になくしています。深い軒は登梁を天秤にしてその尻で支えていて、登梁の間隔は5間の間口を6等分しています。正面と背面の壁の両端には袖卯建を設け、延焼防止の徹底を図っています。
1階も2階も外壁は塗籠とし、土色壁で仕上げています。
間取り
主屋は、ハイリクチから囲炉裏のあるダイドコとその奥に続く炊事場に沿って、前からミセノマ、オウエ、ナンド(ブツマ)と1段高くなって並び、オウエからは座敷棟のシキダイノマへとつながり、奥へツギノマ、ザシキと展開します。ナンドと炊事場のあいだには3畳の小室と浴室、脱衣室などが設けられており、また、ハイリクチの脇にはセンチ(便所)、物置、カラウスバ、暗室などがありますが、こちらは後世の改造であると考えられています。
座敷の雑作は控えめですが、書院や天井に意匠を凝らしたあとがうかがえます。ザシキとツギノマの天井は床の間、脇床、書院とともに杉板目のウヅクリで、板幅が揃っておらずさまざまであることがさらなる趣を醸し出しています。木部はすべてベンガラと煤によって色付けされ、柿渋と拭き漆によって仕上げがなされています。座敷の竿縁はすべて黒塗りですが、ツギノマの竿縁だけは漆黒の底面が削られており、それには何か特別な理由があったと考えられますが詳細は不明です。
オウエの北壁には箱階段が置いてあり、2階へ上がれるようになっています。階段の上には、1畳大の戸板に戸車をつけて水平に転がして閉める蓋がついています。階段を上がった先には6畳間、奥に8畳間があって、東に開く窓からは町屋の屋根越しに今庄の山並みを望むことができます。
前方は板の間と物置を挟んで近代に入ってから改築された漆喰塗りの洋間があり、さらにその前の天井が低くなる幅5尺ほどはかつての厨子2階が土戸とともに残っています。土戸は、洋間前室の板の間の北面妻壁とダイドコ上部吹抜けの妻壁にも内開き土戸として設備されています。2本溝で左右から2本ずつ繰り出す造りで、軒裏と左右外部の壁は突き出して塗り込められているため、板戸の代わりに土戸で火が入るのを防いでいたとも考えられています。
2階の右半分はダイドコの上部を吹き抜けとするほか、奥は小屋裏、前は厨子2階で、こちらには1階ハイリクチの右手前隅の梯子段で登ることができます。
(引用文献:「今庄宿-伝統的建造物群保存対策調査報告書-」)
水戸天狗党と今庄宿
江戸時代末期の元治元年(1864)、常陸国(今の茨城県)筑波山で挙兵した尊王攘夷派の水戸天狗党は、同年11月1日、水戸浪士の武田耕雲斎に率いられ、朝廷に攘夷を嘆訴せんと京都へ向かうため中山道から美濃路を西へと進んでいました。それをみた幕府軍は、天狗党の太平洋側への侵入を防ぐために東海道を西進する一方、天狗党の進路上に位置する大垣藩や彦根藩などに天狗党追討を命じました。行く手を阻まれた天狗党は進路を変更して美濃から蠅帽子峠を越えて大野へ入り、東俣(池田町)から杣木俣峠を越えて宅良の谷に降りてきました。峠下の杣木俣集落の人々は突然現れた浪士たちの姿に言葉に言い表せないほど驚き、恐怖におののきました。しかし、この時の浪士たちの行動は終始整然としていて、乱暴狼藉を働く者はいなかったといわれています。
天狗党が今庄宿に到着したのは12月9日の夜のことですが、前日の8日に池田方面で大火があり、浪士が到着すれば全村が焼き払われるという噂が流れました。このため人々は慌てて家財道具を持って逃げ出し、浪士たちが到着したときには誰もいない無人になっていました。食べ物もなく、寒さも厳しい雪中行軍のなか疲れ果てた浪士たちは無人の宿で休息につきますが、なかには自分たちの志が達成できない苛立ちからか、抜刀し柱に斬り付けた浪士もいたようです。今も数軒の家に当時の刀傷や遺墨が残っており、この事件の詳細や浪士の名前などが記された古文書も伝わっています。
12月11日に今庄宿を出立した天狗党は、二ッ屋を通過し、雪深い木ノ芽峠を越えて新保(敦賀市)にたどり着きましたが、そこは12月初めから幕府の命で十数藩の兵士1万数千人に包囲されていました。後ろからも鯖江や府中の兵が追撃してきていることを知った一行はついに降伏、このとき捕らえられた党員828名のうち、武田耕雲斎以下浪士353名が敦賀の来迎寺野に設けられた刑場で処刑されました。
(参考文献:「今庄町誌」・「今庄の歴史探訪」)
お問い合わせ先
教育委員会事務局
電話番号:0778-47-8005 ファックス:0778-47-7010
メール:kyouiku@town.minamiechizen.lg.jp(メールフォームからもお問い合わせいただけます)
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